千葉地方裁判所 昭和63年(ワ)1642号 判決 1996年4月24日
原告
白川すみ子
ほか二名
被告
東海運株式会社
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用を原告らの負担とする。
事実及び理由
第一原告らの請求
被告は、原告白川すみ子(以下「原告すみ子」という。)に対し四二二三万一七四〇円、原告白川喜朗(以下「原告喜朗」という。)及び原告白川満朗(以下「原告満朗」という。)に対し各一六七四万八〇五円宛及びこれらに対する昭和六一年一〇月八日から支払い済みまで年五分の割合の金員を支払え。
第二事案の概要
一 争いのない事実
1 本件事故の発生
(一) 日時 昭和六一年一〇月七日午前九時二五分ころ
(二) 場所 千葉県市原市矢田九二番地先の国道二九七号線(以下「本件国道」という。)上
(三) 加害車両 事業用大型貨物自動車(大型牽引ローリー車。トラクタ・千葉一一か八七四四号、トレーラ・千葉八八こ六一号。以下「稲生車」という。)
右運転者 訴外稲生文雄(以下「稲生」という。)
(四) 被害車両 普通乗用自動車(練馬五九た八二〇二号。以下「白川車」という。)
右運転者 訴外白川靖郎(以下「靖郎」という。)
(五) 事故態様 歩車道の区分のない幅員約六・九メートルの本件国道を、白川車が牛久方面から田尾方面に向け走行していたところ、田尾方面から牛久方面に向け走行して来た稲生車と前記場所で正面衝突に近い態様で衝突し、白川車が大破した。そのため、靖郎は、胸部内臓損傷、胸骨・右鋤骨骨折、右上腕挫創などの傷害を負い、即時同所において死亡した。
2 被告の責任
被告は、稲生車を所有し、本件事故当時これを自己のため運行の用に供していたものであるから、自賠法三条に基づく損害賠償義務がある。
3 原告らの地位
原告すみ子は靖郎の妻、原告喜朗及び同満朗はいずれも靖郎の子である。
4 損害の填補
損害の填補として、自賠責保険から、原告すみ子は五八三万三七三四円、原告喜朗及び同満朗はそれぞれ五八三万三七三三円の支払いを受けた。
二 原告の請求内容
原告らは、靖郎及び原告らは本件事故により後記争点に対する判断中で内訳を示すように損害を被つたと主張して、これから前記填補を受けた金額を控除した残金である前記原告らの請求欄記載の金額の支払いを請求している(付帯請求は本件事故の翌日からの遅延損害金である。)。
三 争点
過失相殺の成否及び損害の数額が本件の争点であるが、過失相殺の成否に関する双方の主張は、次のとおりである。
(被告の主張)
本件事故現場は、靖郎の進行方向からみて緩やかな左カーブとなつているが、靖郎は、時速一〇〇キロメートル以上の高速度で走行していたためハンドル操作を誤つたか、もしくは居眠り運転をしていたために、本件事故現場の手前で白川車を道路中央線を越えて対向車線に進入させた。稲生は、自車線を時速約六〇キロメートルの速度で走行して来たが、右のとおり白川車が稲生車の進路を逆走して来たため、急制動をかけハンドルを左に切つて衝突を回避しようとしたが間に合わず、稲生車の車線内で白川車と正面衝突した。従つて、本件事故は靖郎の一方的かつ著しい過失により生じたものであるから、過失相殺により損害額を減額すると、原告らには既に支払いを受けた自賠責保険金額を超える損害はない。
(原告らの主張)
稲生は、本件事故現場のカーブを走行するため、その手前から稲生車を完全に白川車の車線に進入させて逆走していた。靖郎は、自車線を走行していたが、逆走して来た稲生車との衝突を回避するため、やむなくハンドルを右に切り反対車線に進入した。そして、稲生も、事故現場の手前で、自車線に戻ろうとしたので、衝突時には、白川車は稲生車線上にいた。従つて、本件事故原因は稲生車が白川車線を逆走して来たことにあり、白川車が稲生車線に入つたのは衝突回避操作としてやむを得ないものであつたから、本件事故は稲生の一方的な過失によるものであり、靖郎には何ら過失はない。
第三争点に対する判断
一 過失相殺の成否
1 客観的な事実関係
証拠[甲三ないし六、七の一・二、八、一五の一ないし三九、一六の一ないし二八、一七の一ないし三五、一八の一ないし五二、一九、二〇の一ないし二〇、二四、三一、三二の一・二、三五、三六、四〇、四一、六四の一ないし四、六五、証人佐藤道安、同稲生文雄、同江守一郎(第一、二回)、同菅原長一、鑑定、原告すみ子本人]によれば、次の事実を認めることができる。
(一) 稲生車は、トレーラをカプラでトラクタに連結して牽引する大型牽引タンクローリー車(バルクセミトレーラ)であり、トラクタは全長五・六メートル、全幅二・四八メートル、全高二・八六メートル、ホイールベース三・一五メートル、本件事故当時の車両重量約六四〇〇キログラムであり、トレーラは全長八・九八メートル、全幅二・四八メートル、全高三・五五メートル、ホイールベース六・五+一・二四メートル、本件事故当時の車両重量約四九五〇キログラムであつた。
白川車の普通乗用車は、全長四・六九メートル、全幅一・六九メートル、全高一・四三五メートル、ホイールベース二・七二メートル、本件事故当時の車両重量約二〇〇〇キログラムであつた。
(二) 本件事故現場の状況は、おおむね別紙図面一(本件事故の直後に行われた警察による実況見分調書添付図面の写し)に記載のとおりである(但し、右図面中路上及び路外の痕跡等に付した(A)ないし(J)の符号は、説明の便宜上当裁判所が付したものである。)。右図面表示のとおり、本件事故現場の本件国道は、幅員約六・九メートルで片側一車線であるが、上り車線(田尾方面から牛久方面に向かう自動車の走行車線をいう。逆方向の車線を下り車線という。)には右図面表示のとおり幅員〇・七五メートルの路側帯があり、車線とは白線で区画されているから、右部分を除くと、上り、下り各車線とも幅員は約三メートル程度に過ぎない。路面はアスフアルト舗装されており、各車線は黄色ペイントによるセンターラインで区分されている。現場付近では最高速度時速四〇キロメートル及び追い越しのためのはみ出し通行禁止の交通規制がなされている。
(三) 上り車線の左側には、道路に沿つて小湊鉄道の線路が走つており、右線路と道路の間には前記図面一表示のとおり幅員約二・八メートルの草地が続いている。右草地部分は、道路よりも約五五センチメートル低くなつている。そして、本件事故当時、右草地上には、別紙図面一表示(J)の場所に、高さ約五・八メートル、末口直径約一五センチメートルの小湊鉄道の木製通信柱が設置されていた。
(四) 本件事故現場付近一帯はおおむね水田地帯である。そして、本件国道は、田尾方面寄りは本件事故現場までの二百数十メートルの間がほぼ直線状であり、本件事故現場でごく緩やかに右にカーブし、このカーブから更に牛久方面にほぼ直線状に続いている。そして、本件事故現場付近には大きな建造物はないが、本件国道に沿つて電柱や宣伝看板等が設置されているため、上り、下り各車線を走行して本件事故現場に至る車両は、カーブの比較的近くに来るまで互いに相手方の存在を認めにくい状況があり、少なくとも、相手方が上り、下りのいずれの車線を走行しているかはカーブの近くに来るまで確認し難い状況にある。なお、本件事故当時は、小雨のため路面は湿つていた。
(五) 靖郎は、本件事故当日、午前九時五四分のスタート予定のゴルフに行くため、白川車で東京都杉並区内の自宅を朝の六時三〇分ころ出発し、本件国道を牛久方面から田尾方面に走行していた。右ゴルフは、本件事故現場から自動車で約四、五分の距離のところにある鶴舞カントリー倶楽部で行なわれる予定であつた。
(六) 他方、稲生は、安房鴨川で積荷を降ろした後、千葉新港に向かつて本件国道を田尾方面から牛久方面に走行していた。そして、本件事故現場の手前では、後続車両の先頭を走つている状況であつた。
(七) 本件事故直後に警察の実況見分が行われたが、そのときには、現場は本件事故当時のまま保存されていた。そして、白川車は別紙図面一表示<2>の位置に大破して停止し、稲生車は同図面表示
(八) また、稲生車の停止位置での状態は、トラクタ左前輪は正規の位置からずれてトラクタ左側面の燃料タンクの下にまで後退しており、トラクタ右前輪も正規の位置から外れた状態になつていた。
(九) 稲生車にはタコグラフが付けられていたが、その速度記録線によれば、稲生車は本件事故前の二五秒ほどの間に時速五六キロメートルから六二キロメートルに増速し、右の時速六二キロメートルに達してから急減速処置によりスピードの基準零線にほとんど垂直(瞬間的)に急下降途中の時速五六キロメートルの点で異常振動を記録している。そこで、矢崎総業株式会社の担当部署では、右記録紙を解析して、本件事故は右の六二キロメートルと五六キロメートルの間で発生したものと推定しているが、急減速処置中の記録は自動車の実際の運行速度と必ずしも一致した速度記録であるとは断言できない旨の意見を付加している。
2 稲生証言について
(一) 証人稲生の証言の要旨は、「稲生車が別紙図面一表示の地点まで来たところで、白川車が<1>あたりの地点を車体全体を上り車線にはみ出して高速(時速一〇〇キロメートル以上と思われる。)で走行して来るのに気付いた。そこで、危険を感じとつさに左ハンドルを切つて正面衝突を回避しようとしたが間に合わず、前記のように衝突した。白川車は<1>地点で進入を開始したものではなく、その前から上り車線を走行して来た。」というものである。
(二) しかし、甲第四号証によれば、稲生は、前記実況見分に立ち会い、警察官に対し、稲生車が地点に来たとき<1>地点に白川車を発見して危険を感じ左ハンドルを切つたと説明していたことが明らかである。そして、実況見分調書に右のような方法で表示される車両の位置は一般に運転席の位置を表示するものであるから、そうすると、<1>のところで白川車は上り車線にはみ出していないことになる。この点に関する稲生証言は実況見分時の説明に沿わないのであり、採用することはできない。また、同証言中の白川車の速度については、右証言だけではそのとおりに認定することのできる性質のものとはいい難い。確かに、稲生車が地点あたりにいたとき白川車が<1>地点あたりにいたとすると、前記認定の稲生車の速度(時速六〇キロメートル程度)及び衝突地点に照して、白川車は相当高速で走行していたことになるが、右の及び<1>地点はいずれも稲生の証言ないし説明だけに係る地点であるから、右証言ないし説明に対立する証拠がある場合には、その信用性には慎重な吟味を要するものというべきである。そして、稲生車の衝突前の走行経路についても、右証言のほかには目撃証言等のこれを裏付ける直接証拠はないから(佐藤証言については次の3のとおりである。)、これに対立する証拠がある場合には、同様に慎重な吟味をする必要がある。そして、これらの対立する証拠が、後記江守鑑定である。
3 佐藤証言について
(一) 証人佐藤道安の証言の要旨は、「佐藤は本件国道の下り車線を時速約四〇キロメートル程度で走行していたが、本件事故現場から一・五キロメートルないし二キロメートル手前の地点で白川車に追い越された。右追越しのときものすごい風圧を感じたことから、白川車はかなりのスピードが出ていたと思われる。白川車は、追い越してからずつと上り車線を走行して行つたが、自分が五〇〇メートルないし七〇〇メートル走行したときに、前方に煙が上がり、本件事故が発生したことを知つた。」というものである。
(二) しかし、甲第二一号証によれば、同証人は、本件事故当日の午後、目撃状況を明らかにするための警察の実況見分に立ち会つたが、そのときには、本件事故現場の約五〇〇メートル手前で白川車に追い越されたと説明していたことを認めることができ、この点は前記証言内容と相違している。また、同証人の証言中には、白川車が本件事故現場まで上り車線を走行し続けたことまでは見ていないという趣旨の部分もあり、右証言自体に、前記証言要旨として摘示した内容に沿わない部分があるから、稲生証言を的確に裏付けるものとはいい難い。また、同証言中の白川車の速度については、稲生証言について判示したのと同様に、他の関係証拠と比較検討した吟味を要するところである。
4 江守鑑定について
(一) 当裁判所の実施した鑑定における鑑定人江守一郎は、鑑定の結果を鑑定書及び鑑定補充書で提出しており、また、証人(第一、二回)として鑑定結果を説明し、更に甲第四一号証の回答書を作成して右回答書が書証として提出されている(以下、これらによる同人の意見を総称して「江守鑑定」という。)。そして、江守鑑定の要旨は、「衝突時には、稲生車は上り車線中央よりやや外側にあり、白川車は約一・五メートル道路中央線を越えて上り車線に進入していた。衝突時には、両車両とも上り車線に五ないし一〇度の角度をもつて進入し、衝突速度はいずれも時速約六〇キロメートルであつた。」というものである。別紙図面二は江守鑑定中前記回答書に添付されている図面であるが、江守鑑定では稲生車及び白川車の衝突前の走行経路は右図面に破線で表示されているとおりとされており、要するに、稲生車は反対車線である下り車線に大きくはみ出して走行していたところ本件事故現場の手前で上り車線に戻ろうとしていたが未だ右図面表示のとおり戻り切れず斜めになつていたとされているものである。
(二) そして、右の鑑定は、次の要旨の手法により得られたものであるとされている。
「本件事故現場に残されているタイヤ痕(A)は、稲生車のトラクタ右前輪が白川車から落下した後路面に印象したものであり、これが稲生車のトラクタの衝突後の姿勢角に該当する。従つて、稲生車が衝突前左ハンドルを切つていなかつたとすれば稲生車のトラクタの衝突時の姿勢角はタイヤ痕(A)の逆延長上にあり、左ハンドルを切つていたとすれば、稲生車の曲進性能に対応した姿勢角であつたことになる。ところで、曲進性能は曲率半径、走行速度、タイヤの横すべり抵抗係数、重力加速度の関数であるから、稲生車の衝突前速度を時速六〇キロメートル程度として右曲進性能に基づいてくりかえし計算の手法で計算すると、稲生車は衝突前下り車線から上り車線に向けて最低五度ないし一〇度の進入角をもつて走行していたのであり、これを図示すると別紙図面二のとおりになる。」
(三) しかし、江守鑑定のうち、タイヤ痕(A)が稲生車のトラクタ右前輪により印象されたものとされている点については、以下のとおり問題がある。
(1) 江守鑑定では、タイヤ痕(A)はこれを田尾方向に延長すると前記衝突地点(<×>点あたり)のすぐ近くを通ること、右タイヤ痕は白川車に乗り上げた稲生車のトラクタの右前輪が白川車から離脱したあたりと推定される地点から始まつていること、そして、路外の小湊鉄道通信柱に残された前記擦過痕は稲生車のトラクタまたはトレーラのいずれか(おそらくはトレーラ)の左側面により印象されたものと認めることができるところ、右通信柱とタイヤ痕(A)の位置関係に照すとタイヤ痕(A)がトラクタ右前輪により印象されたと推定する場合両者の関係を合理的に説明することができること等がタイヤ痕(A)の印象機序に関する根拠とされている。
(2) ところが、そうすると、別紙図面一表示のタイヤ痕(B)がどのような機会にどのタイヤにより印象されたかを説明することは極めて困難である[タイヤ痕(A)がトラクタ右前輪によるものであれば、トラクタ左前輪でタイヤ痕(B)が印象される可能性はなく、またトラクタ右前輪がタイヤ痕(A)を印象しながらトラクタ左後輪(トレーラ左前輪と同じ)がタイヤ痕(B)の軌跡をたどることもほとんどあり得ない。]そこで、江守鑑定では、別紙図面一表示のタイヤ痕(B)は実際には別紙図面二表示の(B)の位置にあつたもので、これは稲生車のトラクタ左前輪により印象されたものであるが、実況見分時の測定が不十分であつたため別紙図面一上誤つた位置形状に表示されてしまつたものと説明されている。確かに、別紙図面一表示のタイヤ痕(B)は前記<×>点からの距離及びタイヤ痕の長さが表示されているだけであるから、この値だけによれば江守鑑定で真実の位置とされている場所にも記入することができるが、それだけでは、これを実況見分調書の記載と明らかに異なる位置形状に修正してよいものかどうか疑問が残るといわざるを得ない。
(3) また、タイヤ痕(A)をトラクタ右前輪が印象したものとすると、前記稲生車トラクタの車幅に照して、トラクタ自体が前記通信柱に衝突するなどしてこれをひどく損傷する可能性があつたことも指摘することができる。この点については、江守鑑定では、当初通信柱は別紙図面二にAで表示したうち右側の大きめの丸印の位置にあつたとされていたのであるが、その後警察が立体写真を機械的に図化した図面(甲七の二)に基づいて、前記Aの左側の小さめの丸印の位置に改めるべきものとされたため、その可能性は一層増したものということができる。もつとも、江守鑑定では、右図化図面の正確性に疑問が表明されているが(甲四一)、証拠(同人の証言及び証人菅原)に照すと、立体写真の図化図面の表示する位置関係は相当信頼することができるものと認めることができるから、にわかに採用し難い。
(4) 更に、江守鑑定では、別紙図面一表示のタイヤ痕(I)について、その状態が不明でどのような機序で印象されたものであるか明らかでないとされている。しかし、別紙図面一の表示によれば、タイヤ痕(I)は顕著なものであり、その位置、形状に照しても、稲生車のいずれかのタイヤが右表示のように直線的に移動したことにより印象されたものであることを否定する余地はほとんどないものと考えられる。ところで、江守鑑定のとおりタイヤ痕(A)がトラクタ右前輪、タイヤ痕(B)(江守鑑定により修正された位置形状のもの)がトラクタ左前輪によりそれぞれ印象されたものであるとすると、トラクタ前部はこれらのタイヤ痕を印象した後本件国道から路外の前記低地に落ちて右国道及び小湊鉄道軌道敷きに挟まれながら国道に沿つて前進したことになるといわざるを得ないのであり、江守鑑定でも同様に推定されているものと考えられる[タイヤ痕(G)及びこれに続いて存在する痕跡(H)はそれぞれトラクタ右後輪タイヤ及びリムにより印象され、痕跡(E)はトラクタ底部またはトラクタ左後輪により印象されたものとされている。なお、痕跡(H)は別紙図面一には記載が不十分であるが、痕跡(H)が存在することは証拠(甲七の二、江守鑑定)により認めることができる。]。そうすると、前記タイヤ痕(I)は、トラクタ左前輪で印象されることはあり得ず、これがトラクタ右前輪及びトラクタ右後輪で印象されることは位置関係に照して不可能であるし、トラクタ左後輪により印象されたこともほとんどあり得ないことと考えざるを得ない。なお、タイヤ痕(I)についてはその位置関係は相当詳しく計測されているから、その位置を修正して考えることはタイヤ痕(B)の場合以上に困難である。そこで、江守鑑定ではタイヤ痕(I)の印象機序は不明とされているのであるが、右の検討結果によれば、むしろ、タイヤ痕(A)及びタイヤ痕(B)(江守鑑定で修正されているもの)がそれぞれトラクタ右前輪及びトラクタ左前輪で印象されたとすると、タイヤ痕(I)は稲生車の車輪のいずれによつても印象され得ないというほうが正確であるといわざるを得ない。しかし、タイヤ痕(I)は顕著な痕跡であるから、これの印象機序が不明でむしろ印象され得ないものであるというのは、にわかに納得し難いところである。
(5) また、証拠(甲七の二、江守鑑定)によれば、別紙図面二の位置で停止した稲生車トラクタの右側には、右図面表示のとおり本件国道の路側上にタイヤ痕あるいは擦過痕があることを認めることができるが、江守鑑定のとおりとすると、右擦過痕等のうち最も牛久寄りに印象されている部分の印象機序が必ずしも明らかにならないと思われる。
(四) ところで、以上に検討したところによれば、タイヤ痕(I)は、これが稲生車により印象されたものである以上、トラクタ左前輪あるいはトラクタ左後輪(トレーラ左前輪と同じ)のいずれかにより印象されたものと考えるべきであり、本件の証拠上、このほかの可能性はまず考えられない。そして、仮にこれがトラクタ左後輪で印象されたとすると、この場合には、痕跡(E)を印象するものが存在しないということにならざるを得ないから、そのように考えることはできない。従つて、タイヤ痕(I)は、トラクタ左前輪により印象されたものと考える以外にはない。そして、単純な図上の検討では、次のように考えるとその可能性を否定し難いと思われる。
(1) まず、稲生車のトラクタ右前輪は白川車に乗り上げた後、路面に落下したが、トラクタ右前輪が落下した後、トラクタ左前輪がタイヤ痕(A)を路面に印象した。
(2) そして、トラクタは、左前輪をタイヤ痕(A)の軌跡のとおりにして走行したが、このトラクタ左前輪は、路肩において、短時間タイヤ痕(G)の始めの部分を印象しながら走行した(なお、稲生車の停止した状態は別紙図面二に表示のとおりであり、トラクタとトレーラが進行方向に向かつて「く」の字型になつている。ところで、江守鑑定でも、稲生車のトラクタとトレーラは衝突後当初はこれとは反対の逆「く」の字型になつて走行したとされている。従つて、稲生車が衝突後のある時点で前部を右に振つたことは力学的にも説明がつくと思われる。)。
(3) そして、トラクタ自体は前部を若干右に振つたので、トラクタはトレーラに押され、トラクタ左後輪が先行して路面を外れて草地に落ちた。ところが、前記のようにトラクタは前部を右に後部を左に若干振りつつ右回転様のまま斜になつて走行したから、トラクタの左後輪が路面から落ちてタイヤ痕(B)(別紙図面一の表示のもの)を印象している間、左前輪はタイヤ痕(G)を印象し続けた[タイヤ痕(B)(別紙図面一の表示のもの)がトラクタ左後輪で、タイヤ痕(G)がトラクタの左前輪で印象されたとすると、(B)線上の点と(G)線上の点の間隔がトラクタのホイールベース(前記のとおり三・一五メートル)との関係で説明され得る必要があるが、トラクタが前記のように右回転類似の運動をしながら斜に走行したのであれば、別紙図面一に表示されている右両線の間隔に右のような運動をしていることを想定してスケールないし模型を当てることによりそれほど無理なく説明することができると思われる。]。
(4) 右(3)の間にトラクタ左後輪(トレーラ左前輪)は相当路外にはみ出しタイヤ痕(B)の終点まで来たが、トラクタ左後輪(トレーラ左前輪)とトレーラ左後輪(終始本件国道上にあつた。)までのホイールベースは六・五+一・二四メートルと相当長いから、この間に斜になつたトレーラ車体左側面で小湊鉄道通信柱に擦過痕を印象した(すなわち、通信柱の擦過痕はタイヤ痕(B)がトラクタ左前輪の印象したものでなくとも説明することができる。)。
(5) そして、トラクタ左後輪はタイヤ痕(B)の先端で草地の外れにある小湊鉄道の軌道敷き土手に衝突して行き場を失つたため、それ以後トラクタ左後輪は土手から抵抗を受けながらこれに沿つて進んだ。そうすると、トラクタの左後輪にかかる抵抗が大きくこれに対してトラクタ左前輪の抵抗が相対的に小さくなるため、トラクタは左廻りの運動をしながら国道と軌道敷きの間の低地を前進した。このときにトラクタ左前輪が路外に付けた痕跡がタイヤ痕(I)になる。そして、左前輪も土手まで進んで同様に行き場を失い、その後はトラクタ左前・後輪とも土手に沿つて進み、別紙図面二の状態で停止した(稲生車のトラクタ右後輪が停止するまで国道を逸脱していないことは甲第四号証の写真に照して明らかである。ところで、タイヤ痕(B)は路外に相当遠くまで逸脱しているように表示されているから、タイヤ痕(B)がトラクタ左後輪により印象されたものとすると、トラクタ左後輪がタイヤ痕(B)の終点まで達したときにはトラクタ右後輪は路外に逸脱することにならないかという問題がある。しかし、トラクタ左前輪の走行軌跡を前記のように考え、この間トラクタに回転運動がかかつていたとすると、タイヤ痕(B)の傾きを誤差の修正程度にわずかに緩やかにすれば、トラクタ右後輪が路外に逸脱しないことになり得ると認めることができる。なお、(B)線上の点と(I)線上の点との間隔及びホイールベースの関係も、(2)と同様にしてそれほど無理なく説明することができると思われる。)。
(五) 江守鑑定では、タイヤ痕(A)をトラクタ右前輪が印象したものとされたために、実況見分調書に表示された二つの顕著なタイヤ痕について、一つ(タイヤ痕(B))はその位置を相当大幅に修正して考えざるを得ず、他の一つ(タイヤ痕(I))は印象機序不明として説明不可能とせざるを得なかつたのであるが、これらはいずれも到底軽視し得ない問題であるところ、タイヤ痕(A)がトラクタ左前輪により印象されたと推定することにより一応右のとおり説明可能となるのであり、また、これによりトラクタが通信柱に衝突しなかつたことも説明することが可能である。そして、以上によれば、江守鑑定のうち、タイヤ痕(A)がトラクタ右前輪により印象されたとの部分は、にわかに採用することができないといわざるを得ない。ところで、江守鑑定では、稲生車の曲進性能に着目して、衝突前の稲生車が下り車線に大きくはみ出していたと結論付けられているのであり、その際、タイヤ痕(A)がトラクタ右前輪で印象されたことが必要な条件とされている。そうすると、タイヤ痕(A)及びタイヤ痕(I)がトラクタ左前輪の印象したものであつても曲進性能からの検討上同様に前記結論を導くことができるのでない限り、右結論も採用し難いことになる。そして、右のように同様であることは、本件の証拠上認めることができない。もっとも、江守鑑定では、稲生車が上り車線上をはみ出さずにまつすぐ走行していたとする場合についても検討されており、その場合の結論が江守鑑定書図14に記載されている。しかし、右の結論の前提は、白川車が中央線を跨ぎ上り車線にはみ出してまつすぐに逆走して来たこと、白川車の速度が時速一〇〇キロメートルもの高速であること及び稲生車は衝突前に左にハンドルを切つていないことが前提とされているもののようである。ところが、前記認定によれば、白川車は本件事故現場の少し手前から斜に上り車線上に進入したのであり、なお、その速度が時速一〇〇キロメートルもの高速であつたことを的確に裏付けるに足りる証拠は乏しいといわざるを得ず、また稲生車は衝突前に若干なりとも左ハンドルを切つているのであるから、右前提は本件事故にはそのまま当たらない。そして、そのほかには、本件事故前に稲生車が江守鑑定により結論付けられているように下り車線にはみ出していたことを合理的に推定させるに足りる証拠はない。
5 以上の次第で、前記稲生証言に反する江守鑑定はにわかに採用し難く、右鑑定のほかには、稲生証言を覆すに足りる証拠はない。そして、稲生証言自体には、衝突前には上り車線内を下り車線にはみ出さないように走行していたものであるという趣旨の部分について、これを採用することができないとするほど不審な点はない。そうすると、本件の証拠上は、稲生車は稲生証言のとおり走行して来たが、白川車が本件事故現場の少し手前で下り車線から上り車線にはみ出して来て稲生車に衝突したと認めるほかない。そして、特段の事情のない限り、白川車の右のような走行態様は、速度の出し過ぎ、前方不注視あるいは不適切なハンドル操作等の運転者の著しい過失によるものと認めざるを得ないところ、被告はこれを過失相殺の問題としているのであるが、以上の認定判断によれば、稲生車に制限速度超過があることを斟酌しても、白川車側の過失割合は、九割を下ることはないと認めるのが相当である。
二 損害
1 靖郎の逸失利益(原告らの主張額は五四二一万〇五九〇円)
(一) 証拠(甲一、九、一三の一・二、一四、原告すみ子本人)によれば、靖郎は、昭和五年一一月九日生まれで、本件事故当時には満五五歳の健康な男子であり、妻である原告すみ子と既に親元から独立した子である原告喜朗、同満朗の家族がいたこと、靖郎は協同エンジニアリング株式会社の代表取締役として同社の業務に携わつており、昭和六〇年度の年収は八四〇万四〇〇〇円であつたことを認めることができる。そして、靖郎は、同人が満六七歳に達するまで一二年間稼働して右年収と同額程度の収入を取得し得たものということができ、その間の生活費は右収入の四割と認めるのが相当である。そこで、右の逸失利益の本件事故発生時における現価をライプニツツ係数を用いて算出すると、右現価は、四四六九万一七九九円となる。そして、その一割は四四六万九一七九円である。
(二) 証拠(甲一、原告すみ子本人)によれば、靖郎の相続人は原告ら三名であり、他に相続人はいないことが認められるから、靖郎の死亡により、右(一)の逸失利益の損害賠償請求権は、原告すみ子が二分の一を、原告喜朗及び同満朗がそれぞれ四分の一を相続したことになる。そうすると、原告すみ子の相続額は二二三万四五八七円、その余の原告らの相続額は各一一一万七二九三円である。
2 葬儀費用(原告すみ子の主張額は二一二万〇九三〇円)
証拠(甲一〇の一ないし九、一〇の一〇の一ないし一一、一一、一二、原告すみ子本人)によれば、原告すみ子は、靖郎の葬儀費用として二一二万〇九三〇円を支出した事実を認めることができるところ、右金額のうち一五〇万円は、本件事故と相当因果関係のある損害と認めることができる。そして、その一割は一五万円である。
3 慰謝料(原告らの主張額は、原告すみ子について一五〇〇万円、その余の原告らについて各七五〇万円)
靖郎と原告らの身分関係、靖郎の年齢、職業、過失相殺事由があることを含む本件事故の態様及び結果等に照すと、原告らの精神的苦痛に対する慰謝料は、原告すみ子につき一一〇万円、原告喜朗及び同満朗につき各五五万円とするのが相当である。
4 損害のまとめ
そうすると、原告らの損害額は、原告すみ子について三四八万四五八七円、原告喜朗及び同満朗について各一六六万七二九三円となる。
5 損害の填補
原告すみ子が五八三万三七三四円を、原告喜朗及び同満朗が各五八三万三七三三円を損害の填補として受領したことは、当事者間に争いはない。そして、4の金額から右弁済額を控除すると、各原告とも残額は存在しないことになる。
三 結論
以上によれば、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 加藤英継 中村俊夫 小池あゆみ)
交通事故現場見取図
事故現場見取図